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国宝臼杵石仏公式ブログ

石仏はなぜ一度に彫られなかったのか?

向かって左が勢至菩薩

向かって左が勢至菩薩

 臼杵石仏は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて(12世紀後半から14世紀中頃)、造立されたとされます。なぜ約150年もの長い期間がかかったのでしょうか?
京都からやって来た仏師集団は、各群を同時に着手し数年で彫ることもできたのでは?
というのも、仏師集団はいくつかのグループに分かれ、その中でも「頭・胴体・足」と担当が分かれていたと分析されているからです。
かなり、効率的な体制です。

 さて、時間がかかった理由ですが3つの説があります。

 まず、経済的な理由です。
京都から来た仏師たちは完成させた分だけその都度報酬を請求したから、というもの。細かい分割払いが認められなかったため、大金が準備できるまで次へ進めなかったということです。地方財政、あまり信用無かったのでしょうか?

 2つ目は、造る順番の問題です。
まず、極楽浄土(ホキ2群)を完成させる必要があったのだろうと。権力者は、自らの往生と力の誇示を生前のうちに形として残したかったのでは?

九品の弥陀(彼岸)から見た満月寺方面(東・此の世)

九品の弥陀(彼岸)から見た満月寺方面(東・此の世)

最近の研究では、ホキ1群の一部とホキ2群は同時期に造られたとされます。 とすると、極楽浄土とその本尊である阿弥陀仏を真っ先に完成させることになります。石仏群の中でも随一の美しさを誇るとされるホキ1群1龕の阿弥陀如来像。立派なご本尊、トップバッターかもしれません。

石仏群随一の美しさを誇るホキ1群2龕の阿弥陀如来像

石仏群随一の美しさを誇るホキ1群2龕の阿弥陀如来像

 3つ目は、その時代の流行を追ったため時間がかかった、とする説です。
当初は浄土庭園と極楽浄土(満月寺と含むホキ石仏第2群)のみの構想だったが、大日如来像も配置し立体曼荼羅を表現しえみよう、地蔵信仰も取り入れ地蔵十王像も置いてみよう、と次々と計画が広がったのではないか、と。

最も新しいとされる(鎌倉期に彫られた)地蔵十王像

最も新しいとされる(鎌倉期に彫られた)地蔵十王像

 どれも説得力がありますし、相互に関連し合っているようにも思えます。

いずれにしろ、4群61体という壮大な磨崖仏群が完成できたことは、すばらしいことです。ゆっくりと時間をかけたからこそ、今もなお親しまれる魅力があるかもしれませんね。

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